Forsythe

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彩の国芸術劇場へWilliam Forsytheの公演 You made me monsterを観に。
公演を観た後、正直言葉にならない。信じられない発想。
導入から最後まで完璧。なんでああいう発想ができるんだか理解を超えていた。


大概の場合、いわゆるダンス・パフォーマンスに対し、コンピュータによるインタラクション、もっと簡単に映像を使うでも良い、そういうのを加えて行くと、妙にそこだけ浮き上がってしまう。それは、その技術そのものがあたかも本題のように見えてしまう、ということで。そこがアピールポイントであり、その公演 - 作品の独自性になってしまうというか。
この公演においては、なぜ、それがそこに無ければ行けないのか。なぜ、そういうインタラクションがデザインされる必要があったのか。それが意味を持ち得たり、単なる演出的なものであったりするわけだけれど、有無を言わせず、そこにあるということが理解できてしまう。


公演自体にフォーサイスは出ていなかった訳だけれど、その要素の組み合わせ、発想の起点なんかから、強烈にフォーサイスの肉体性、ダンサーである体が浮かび上がっているのを感じた。ダンサーでなければあり得ない発想。


単純にあの造形だけではなく、映像だけではなく、音だけでもなく、それがダンス、肉体の動き、というか、そこに人が居るということ、リアルにそこに存在しているということ、僕ら観客もその場にいるということによって有機的に意味をもち始める。明確な一つのビジョンを浮かび上がらせる。


その作り出されるムードそのものがフォーサイスの作品であって、逆説的にそこではダンスはそのムードを媒介するものでしかあり得ない。そこで「ダンス・パフォーマンス」は、観て明らかにわかるように揺らぐ。むしろ、もう既にそこにない。なんていうか、もうダンスじゃなくても良い。んだけど、発想がダンスであって。


着想から、あの作品に至るまでの発想のライン自体が余りにも美しい!
そうだ、何がそんなにすごかったのかって、その過程なんだ。なんでああいう作品が出てくるのか、それがなんていうかファンタスティックなんだよ。芸術が芸術である瞬間を僕は目にした。


実際的な部分で照明の重要さ。結構、照明の当て方で観え方は全然変わってしまう。

僕の頭の中にしばらく同じイメージが浮かんでいる。
「疲れ果てた末の断片化された記憶」「断片化されてなんども繰り返されてしまう今」
ドラッグ体験にも似て、その瞬間に僕はそれをしたことを忘れてしまい、それを思い出すためにその直前の動きを繰り返してしまう。

これを身体のレベルに落とし込むにはどうすればいいんだ?

どうでもいいものから構造を導きだし、それを題材とすること。
それから動きのバリエーションを想起すること - ダンサーの発想

そうすると、僕はやはりミュージシャンでなければいけない。
自覚的にミュージシャンじゃ無くちゃいけない。


発想のラインはあくまでも発想のラインでメタ的な意味しか持ってない。
そうじゃなくて、なんなんだ、あのあまりにも驚異的に自由な感覚で有機的に組み合わさる要素!


造形の美しさ
はっと気づいたときには異常な空気を感じる。目の前の違和感。音。そのムードに引き込まれる。
その造形のムードとダンス、表情、動きのムードの一致
そこでなぜ僕は自分で作業をしなくてはいけなかったのか。なぜフォーサイスは僕らにその作業をさせたのか。あの造形を、僕ら自身の手で組み上げること。あの禍々しい断片を組み合わせること。なにかしらよくわからない生き物(これも禍々しい)を作り上げること。僕ら自身の手でモンスターを作り上げること。モンスター、禍々しさがありながら美しい!! 骨、標本というならはじめからあればいい。そうではなくて僕らが作ったって事はどういうことなんだ。


音楽は、もっと簡単に、もっと自由に音楽を超えられる。


S/Nの方が遥かに直接的だ。


個々の細かな動きが徐々により大きな流れに飲み込まれて行く。


インタラクションなんかくだらない。だって、手を握ったら握り返すようなもんじゃない。

と、思ったりした。