01/18 - Kyoto New Music New Year Meeting 2009

明後日ー。

Patchware on demand meets night cruising

Kyoto New Music New Year Meeting 2009

http://www.metro.ne.jp/con_sche_090112.html

  • 1.18 sun 7pm-
  • Act
    • NHK(raster-noton) / Kouhei Matsunaga (Mille Plateaux ,Important Records)
    • Toshio Munehiro / PsysEx+ekran / RUBYORLA(from Harp On Mouth Sextet)
    • Samurai Jazz Quintet / intext / polar M+shunsuke kato
    • KYOHEY / marihiko hara+no color / yoshihide nakajima
    • Who were God's parents / soundcomfort / TATSUYA

正直なとこ、盛り沢山過ぎです(笑。
今回はekran名義でPsysExさんの映像的な何かをやります。

前回のraster-notonの時の変形LEDディスプレイのアップグレード版+αでやる予定。
前回の時には京都芸術センターの制作室で作業をしていたのだけれど、今回はそこが使えず、高谷さんにご協力いただいたりしながらdumbtypeのスタジオにて作業、作業。
ベストな状態、というのが見えず、ひたすらトライアンドエラー。が、前回とりあえず産まれたての仔馬状態だったけれど動いた事は動いてどうにかこうにか実演まで行けたので問題になるポイントなんかは分かっていたのでその辺をつぶしつつ。それでもまあ、当日まで作業する事になるのだろうな。でも大分いい感じで進んでるのでは。当日、お楽しみに。

以前の記事で

映像、は、窓、ではなく、面。

と書いたのだけれど、それに対して友人がメールでコメントをくれた。了承とってないんですが、そうかー、なるほどー、と思えたので転載。ありがとうT君

映像って言ったとき、「スクリーンという窓枠の内側での物語」を競う感じが、確かにします。というわけで、その物語の伝えたいテーマを追求せざるを得なくなる。ところが、窓枠の設定は同時に、窓の内外を設定することだから、視聴取者の立っている世界とは断絶した世界を立ち上げることになってしまう(断絶をつなぐのが“意味”だ、という風に)。んで、モノによっては面白くない。。
面は、我々( = 視聴取者)と同じ世界、同じ論理的レベルに存在できる。窓を設置するための面、というふうに。その面 = 映像の存在は我々の存在そのものに干渉する。リアリティを考えたとき、そういうのに注目するのは大切だと思います。
作家さんがどのくらい、言語的に意識的なのか、そうあるべきなのかどうかは僕にはわかりませんが。

京都精華のワークショップでも取り上げたflight404やGlenn Marshallらの作品は確かにすごく良い、のだけれど、その一方で物足りなさも感じるわけです。「僕らの領域」に踏み込んでこない、というか。
考え直してみれば、僕は映像をやる前には舞台照明をやっていて(といっても高校生の頃だけれど)そこからストロボスコピックな映像(にはdumbtypeの作品なんかの影響が大きいわけですが)をつくりはじめたこと、そしてノイズにどうしても惹かれる部分っていうのは、映像がモニタの中に収まっていない状態、音楽がスピーカの向こう側に収まっていない状態を指向していたわけで。
そう、ノイズミュージックはスピーカの向こう側の音像なんかじゃなくてスピーカの悲鳴。クラブのビートも音楽ではなく時間の刻み。爆音、自分の許容できる以上の爆音を聞く事。うるささをこえた先の何か。ストロボライトを見つめ続けた先に見える何か。まぶたの裏側。
三つ子の魂百までとは良く言ったもので、未だに映像は光の構成、とか、映像は窓ではなく面とか言ってんだな、と。

その一方で、いつまでも抽象じゃつまらん、とも思ってんだよね。何か物語を指向する部分も最近は大きい。ゴダールメルツバウの間を抜けられるのか?

ドットの構成、映像は光の粒の構成。リバーブは嫌いだ。右と左のスピーカの間の音像、ではなくスピーカに張り付いたアクチャルな振動。

まとまらへん。感覚で理解する。メモ。